仁木(にっき)城

2017年5月2日撮影


◆別名:

 

◆所在:

岡崎市仁木町郷西

 

◆交通:

 

◆歴史:

足利義兼の三男である義氏は、母が北条家の出自であったため、承久の乱(1221年)が終わると、足利家の名跡を継いで東海道の要所である三河守護となり、東条城を本拠として三河の地を治め、吉良・今川家の祖となった。

 

義氏は足利一門の足利実国、義季の兄弟をこの地に移し、兄は近隣の仁木城を拠点とし、仁木実国を名乗り、弟の義季は細川城を拠点として細川義季と名乗った。

 

仁木氏は足利氏一門とはいえ、末流にあたるため、その地位は低かったが、南北朝内乱期になると頼章・義長の兄弟は、足利一族として尊氏・直義に属して転戦。

 

頼章は建武3年(1336年)に尊氏が九州へ敗走した際、丹波守護となり、尊氏の再上洛へ向けて軍事行動を展開。これに対し、弟の義長は尊氏の配下として鎮西大将軍となり、九州で軍を展開していくが、建武3年(1336年)には一色範氏に九州をを任せて上洛。

 

以後、仁木氏は足利尊氏軍の主力として各地を転戦し、暦応元年(1338)頼章が遠江守護となったのを皮切りに、頼章は幕府執事に起用され、丹波・丹後・武蔵・下野守護を兼ね、弟の義長も伊賀・伊勢・志摩・遠江・三河の守護となり、一大勢力を築く事になる。

 

延文三年(1358年)足利尊氏が死去すると、頼章は執事を辞職。その翌年に頼章が没すると、次第に仁木氏は没落。わずかに伊賀北部を治めるだけの勢力となっていき、大永年間(1521年~1528年)に伊賀の国人領主である柘植氏と抗争に敗れ去り、仁木氏の主流は歴史から姿を消していった。

 

なお、徳川四天王の一人である榊原康政は仁木氏の流れを汲む出自と言われているが、定かではない。

 

◆現在:

仁木八幡宮一帯が城跡と言われており、西側には遺構が残されていたと言われているが、矢矧川の改修工事の際に削り取られたと言う話である。

 

神社本殿の裏側には土塁や井戸が残されている。