2016年9月5日撮影
◆別名:
井ノ口砦
◆所在:
岡崎市井ノ口町楼
◆交通:
◆歴史:
湾曲した川の部分に張り出した台地に築かれた城跡である。
周囲からは弥生時代の土器が発掘されており、古くから環濠集落があったと言われている。
三河一帯を支配する吉良氏は、南北朝時代に東条と西条に分裂。両氏がお互い正当性を主張し、長い間分裂抗争を繰り広げていたため、三河における吉良氏の権威は失墜し、国侍は東条、西条の両吉良氏を問わず、下知に従わない豪族が増えていった。
寛正6年(1465年)大場(大庭)次郎左衛門、丸山中務、梁田左京亮らが古川公方の命と称して、井ノ口城へと立てこもった上、主要街道を封鎖して京都への租税物などを奪い取るといった軍事行動に出る。これが額田一揆の始まりであった。
一揆軍に対し、幕府は三河守護の細川成之にたいして鎮圧を命じ、三河の有力国人である西郷氏や牧野氏などに井ノ口城攻撃させ、3日間の攻撃の末に城を陥落させるが、なぜか一揆軍の主要武将は全て取り逃がしてしまった。
その後、再び領内に立ち戻った一揆軍の武将は再び兵を挙げたため、細川成之は松平、戸田の両氏に鎮圧を命ずるも、一揆軍は戸田氏の領地にある大平郷を徘徊し、戸田氏側はこれを黙認するなど、幕府に従わない動きを見せていたため、幕府政所執事である伊勢貞親(松平氏は伊勢氏の被官であった)から奉行に対し一揆鎮圧の奉書を作成し、松平、戸田の両氏に送り付けた。
この奉書を見た松平、戸田氏の軍勢は一転して一揆軍を攻め立て、大場次郎左衛門は深溝で松平氏に、丸山中務も大平郷で戸田氏に討ち取られるなどして、一揆軍は壊滅した。
この結果、戸田氏は田原一帯と知多の河和などの地を得た。
また、松平氏は深溝や形原、五井、長沢などの地を得る事になり、これらの所領には息子らを配して十八松平の基礎を築き、戦国大名へと発展していくきっかけとなった。
◆現在:
城跡には井ノ口稲荷神社が建立されている。
神社北側は斜面になっており、その下は現在も川が流れているため、堀と切岸の雰囲気を見る事ができる他、東西の道路は一段低くなっており、空堀があった事を思わせる。