2015年11月25日撮影
◆別名:
生田屋敷
◆所在:
岡崎市美合町
◆交通:
◆歴史:
三河国二葉松に城主は酒井彦四郎・石川又四郎・生田六左衛門と記載されているが、いずれも詳細不明。残された古城図を見ると本丸の東西に枡形の虎口があり、城域全体が堀に囲まれていて、軍事目的の城であった事が伺えるが、規模は小さいため土豪の城館を改修して城砦として利用したように思える。
城址碑の脇に立つ看板には
「明和年間に生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前中津藩に御輿入れになった際に付き添い武士として栄任された時の庄屋である本間幾右衛門重勝に其の後始末を一任されて廃城になった」とある。
この中の『家康の娘が中津藩に輿入れ』に該当する物は以下の3件である。
1:秀忠の養女である千代姫(小笠原秀政の次女:保寿院)が小倉藩主細川忠真に輿入れする際に中津城へ入った。
2:家康の養女である亀姫(本多忠政の次女:円照院)が松本藩時代の小笠原忠脩に輿入れした。
※忠脩の息子である長次が龍野藩主を経て中津藩主となっている。
3:家康の長女亀姫が奥平信昌に輿入れした。
※信昌の子孫である昌成が豊前中津藩に転封になっている。
しかし、これら3件の輿入れは、いずれも慶長(1596~1615)以前の出来事であり、明和年間(1764~1771)とは100年以上の開きがあるため、いずれかの誤伝だと思われる。
◆現在:
県道48号線の南にある田の中に城址碑が残るのみである。
城址碑脇にある生田城に関する看板