姫ヶ(ひめが)城

2017年11月26日撮影


◆別名:

保母城

 

◆所在:

岡崎市保母町栗下28

 

◆交通:

 

◆歴史:

寛和2年(986年)頃に大江定基が三河守として赴任してきた際に居館とした事が始まりとされる。

定基は京に住んでいた際に妻を離縁し、力寿と言う美しい娘を連れて三河へと赴任してきた物の、力寿は重病となり衰弱死をしてしまう。悲しんだ定基は数日の間、力寿の遺体を抱いて添い寝したが、死臭に耐え切れずに弔いを行った。

 

現世が辛く苦しい物だと仏を頼む発心を起こした定基だったが、その後、猟師が生きたキジを捕らえて持ってきた際、『魚と同じで、鳥も活き造りにして焙ったら旨いのでは?』と言ったため、生きたまま羽をむしり、包丁で捌いていったが、血の涙を流して死んでいったキジを見て、惨い事をしたと思い、国府を出て都へ行き出家。長保5年(1003年)には宋へ渡海し、その一生を中国で終えたと伝わる。

 

定基が去った後、一時期は山林と化していたが、松平好景が深溝城主となると、矢作川の支流である乙川と鉢地川に挟まれ、東海道を見下ろせる地に目を付け、弟の定政を配して保母松平家を立てさせた。

 

その後の姫ヶ城の歴史は定かではないが、家康が関東へ移封した後も、濃尾平野の大半を一望でき、岡崎城東の守りの要として眼下に東海道を見下ろす立地でもある事から、城館としての規模はそれなりの物を維持していたと思われる。

 

◆現在:

胎蔵寺本堂裏にある墓地の奥から、遊歩道が整備されており、本郭まで上る事ができ、北側を中心に展望が開けている。

本郭には城址碑が残る他、二曲輪との間には土塁の痕跡なども見る事ができる。


展望台からの眺望