佐々木(ささき)城

2016年9月5日撮影


◆別名

上宮寺城

 

◆所在

岡崎市上佐々木町梅ノ木

 

◆交通

 

◆歴史

佐々木松平家の松平忠倫が築いた城と言われ、城内には三河三ヶ寺の一つである上宮寺を持ち、本願寺教団の拠点としても重要な城であった。

忠倫は長沢松平家の庶流とも、松平広忠の従兄弟とも言われる人物であるが、系譜ははっきりしていない。

 

天文9年(1540年)に織田と松平の間に安城合戦が起こり、安翔城が織田信秀の軍勢によって陥落すると、松平忠倫は上野城主酒井忠尚らと共に織田方へと寝返ったため、矢作川の西岸一帯は織田氏の支配する所となった。

 

信秀はその後も侵攻を重ね、矢作川東岸にある上和田城を落とすと、忠倫を上和田城へ入れ、松平氏の本拠地である岡崎城への圧力を強めていく。

 

これに対し、天文9年(1540年)松平広忠は筧重忠に命じ、忠倫を暗殺。

暗殺後、広忠は『忠節無比であり万疋の知行を出す』と言う感状を筧重忠に出している事を見ても、忠倫が織田方としてかなりの力を持っていたと思われる。

 

忠倫の弟で、尾張に梅森北城を得ていた松平三蔵直勝は、織田と松平の争いの中、駿河の今川義元の所へ逃亡していたが、天文18年(1549年)松平広忠が死去すると、今川義元は松平氏の主要な城へ城代を入れ、三河支配を強めて行く中、義元の元にいた松平直勝は兄の旧領である佐々木城へと入城した。

 

天文20年(1551年)に今川義元が松平直勝宛てに『尾張国での領地数か所を捨てて、こちらに来て以来、無償で奉公し忠節の至りだった。安城での戦闘時に兄の忠倫の相続地を与えたが、相続が遅滞していると聞いたので、関係者には早急に対応するように取り計らう』と言う内容の安堵状を出している。

 

その後、松平元康(徳川家康)は今川氏の支配を脱し、三河統一を目指していく中、永禄7年(1564年)に佐々木城内に建つ上宮寺から兵糧を奪い取った事に端を発した三河一向一揆が勃発。

 

松平家が二分する中、直勝も一揆側に付いて城へ籠り、元康に敵対するが、敗北を喫して佐々木城は破却される事になった。

 

◆現在

上宮寺は昭和63年に火災にあい、本堂を始めとした伽藍が消失。

現在は近代的な建物に建て替えられている。