小針(こばり)城

城跡の南西にある城跡碑

後ろの薮は土塁の残りである。


2015年10月26日撮影


◆別名

阿部城

 

◆所在

岡崎市小針町城跡

 

◆交通

 

◆歴史

室町時代中期に阿部忠正が築いたのが始まりとされる。

三河国二葉松の中で文明年間(1469年~1487年)に安翔城主である松平親忠に仕えたと言う記述が残っており、松平広忠の譜代衆として阿部正宣(忠正の息子)の名前も見る事ができる。

 

正宣の嫡子である阿部正勝は松平竹千代(後の徳川家康)が人質だった頃から仕えた一人であり、家光の時代には正勝の孫にあたる重次が老中を務めている。

 

天正18年(1590年)徳川家康が関東移封の際に、正勝もこれに従い鳩ヶ谷5000石を得て関東へ移っている事から、この時期に小針城は廃城になったと思われる。

 

◆現在

小針集落の南東の角には土塁が残り城跡碑が立っている。城址碑の東を流れる用水路はかつての堀であったとも言われている。

 

集落の北端に神明社があり、明治時代までは社の北側200mに渡って堀があったと伝わる。

 

現在は宅地化されており定かではないが、地図を見ると神明社北側の堀跡とされる道を西に進むと、集落を囲むように川が流れており、微高地になっている事から、この辺りに城館があったのではないかと想像できる。


城跡碑の近辺から東方面を撮影

撮影した場所が低く、現在は建物もあるが、城があった当時は広い川原と田畑だったと思われ、城址の中でも高台の場所に櫓を組み、その上から眺めれば、左手奥は井田城を見る事ができ、右手は岡崎城あたりまでは見通せたと思われる。