六栗(むつぐり)城

六栗城至近にある明善寺には城主の夏目吉信の墓が残されている。

 

2016年2月15日


◆別名

夏目屋敷

 

◆所在

幸田町六栗本郷

 

◆交通

 

◆歴史

永禄年間(1558年~1570年)頃に夏目吉久が築いた城。

平安時代末期に村上源氏の庶流である国忠が奥州合戦の戦功によって信濃国伊那郡夏目村の地頭職を得て、その子孫が夏目氏を名乗り、信泰の代に三河へと移住してきたと伝わる。

 

夏目氏は代々松平家に仕えてきたようで、夏目吉久の息子である吉信は永禄5年(1562年)に今川家との間で起こった八幡合戦では、味方が総崩れになった際、殿軍を務めて国府までの退却戦では6度踏みとどまって今川方の追撃を封じ、後に家康から備前長光の脇差を賜って、その功を賞されたと言われている。

 

しかし永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆では一揆側に付き、野場西城に籠り家康に敵対するものの、深溝城の松平伊忠によって野場西城は落城し、吉信は捕らわれの身となるが、伊忠のとりなしもあって、松平家に帰参を許された。

 

元亀3年(1573年)に三ヶ原の戦いが起こり、この戦に敗北を喫した家康は、家臣の静止を振り切って突撃しようとするが、吉信が家康の兜をかぶり、身代わりとなって武田軍に突撃し、討ち死にを遂げた。

 

吉信の長男である吉忠が跡を継ぎ、その息子である宗吉まで続いたが、無嗣断絶となり慶長年間(1596年~1615年)に六栗城は廃城になったと思われる。 

吉信の次男と三男は旗本として家系を残し、三男の吉次の末裔に明治の文豪、夏目漱石が産まれている。

 

◆現在

明善寺に夏目吉信の墓は残されているが、城自体に関しては、宅地もしくは畑となっており、正確な位置は不明である。