坂崎(さかざき)古城

坂崎古城の北西角を撮影。

遺構かどうかははっきりしないが、土塁と堀の跡のようにも見える。

 

2016年2月15日撮影


◆別名

 

◆所在

幸田町坂崎城

 

◆交通

国道248号線を岡崎方面から南下し、竹下の信号交差点で右折(西へ向かう)し、450m程進んだ坂崎船附の交差点を左折する。

 

250m程で左側に八幡宮が見えるので、そこから150m進んだ2本目の路地を右折し、300m程進んだ先が坂崎字城になる。

 

◆歴史

弓削氏の一族である平岩重益が坂崎郷へ居住して築いた城館と言われ、重益の孫にあたる平岩親吉は天文11年(1542年)に、この坂崎古城で産まれたと言われている。

 

親吉は家康の嫡男信康の傅役を務めるが、後に信康は織田信長の命により切腹。

この時、親吉は自分の首を差し出して信康を救おうとするが、処断を防ぐ事はできずに蟄居謹慎する。

 

その後、家康の直臣に戻って、甲斐の郡代として甲府城を築いた後、家康の関東移封に伴い厩橋3万3千石を得るが、関ヶ原合戦以降は甲斐へと戻り、甲府城に在住した。

 

慶長12年(1607年)徳川義直が尾張藩主となると、親吉は義直の付家老として尾張藩の執政を行い、犬山12万3千石を領した。

 

坂崎『古』城と言われているが、近隣にある坂崎城とどちらが古くからある城館かは定かでは無く、天野康景は天文6年(1537年)に坂崎城で産まれたと言われている事から、同時期に平岩氏と天野氏の城館が隣接して存在していた可能性も否定はできない。

 

また、平岩重益は坂崎から土呂に移り住んだとの記録は残されているが、土呂城を調べても平岩氏の名前を見る事ができないので、詳細は不明である。

 

なお、平岩氏の由来である射割岩の一部は、大久保陣屋跡に移され、今も保存されている。

 

◆現在

宅地化されてはいるが、部落の周囲を歩いてみると、土塁の跡と思える箇所がいくつも存在する。部落の北から西側にかけては水路もあるが、当時の堀跡かどうかは不明。