大草(おおくさ)城

正楽寺にある西郷稠頼墓の看板には大草城の記述が有る。

 

2016年2月15日撮影


◆別名

 

◆所在

幸田町大草寺西

 

◆交通

国道248号線を岡崎方面から南下し、大草寺西の信号交差点を過ぎ、250m程進んだ東側に正楽寺がある。

 

◆歴史

鎌倉時代に足利氏の任国であった大草郷の領主、大草公経は四条畷の戦いで戦死を遂げる。

その後、大草公次が足利義満に料理人として仕え、大草流庖丁道を確立し、大草衆として能や狂言、年中行事を司る人々と共に、足利幕府以降の武家社会を文化の面で支えていった。

 

室町前期に足利尊氏に従って仁木城を出て、九州で軍勢を率いていた仁木義長が三河守護に任命されると、その配下にあった西郷氏は守護代として九州から移り住み、大草氏に代わってこの地を支配するようになった。

 

室町中期には西郷稠頼が大草城を築いて本拠地とし、北へと侵攻を開始。

明大寺城を築いた頃には、松平郷を出て、南下しながら勢力を広めつつあった松平氏との衝突があり、その備えとして龍頭山に砦を築いた。この砦は、その後、幾多の改修を経て岡崎城となっている。

 

大草城から岡崎城までの広範囲を支配下に収めた西郷氏であったが、安翔城の松平信光との争いに敗れた後は、信光の息子である光重を婿に迎え、大草松平氏として松平家を支えていく事になる。しかし、後年に起こった三河一向一揆の際には、一揆側に加担。一揆が敗れた後、大草城は廃城となったとされる。

 

なお、同時代に三河の最東部にある八名郡を領し、月ヶ谷城五本松城を支配していた西郷氏は同族と言われている。

 

◆現在

正楽寺の西側が城跡と言われているが、遺構などは残されていない。