野場西(のばにし)城

野場西城の土塁には看板が立てられている。

 

2016年2月15日撮影


◆別名

 

◆所在

幸田町野場西城

 

◆交通

県道292号線と県道325号線の交わる野場西の信号交差点を北へ進む。

300m程進むと広田川にかかる橋があるが、橋を渡って50m程先の道路左側に『野場西城』の看板が見える。

 

路地を入って、民家沿いの路地を進んだ先に土塁が残されている。

 

◆歴史

大須賀胤重が築いた城。

徳川二十将の一人である大須賀康高はこの野場西城に産まれている。

 

康高は当初、娘婿である榊原康政と共に上野城の酒井忠尚に従っており、松平家から見ると陪臣であったが、忠尚が三河一向一揆の際に一揆方に付くと、大須賀康高と榊原康政は忠尚の元から離反し、松平元康の直臣となった。

 

野場西城は一揆方によって占拠され、六栗城の夏目吉信が大津半右衛門、乙部八兵衛らと共に籠り、元康と敵対するが、深溝城の松平伊忠によって乙部八兵衛が寝返り、野場西城は落城。主将の夏目吉信は伊忠の懇願によって許されて松平家に帰参し、三方ヶ原の戦いで敗北を喫した徳川家康を逃がすべく、家康の兜をかぶり身代わりとなって討ち死にを遂げた。

 

その後、大須賀康高は旗本先手役として数多くの戦いで戦功を挙げ、後に横須賀城を築城。

夏目吉信の子孫は旗本として残り、子孫には文豪、夏目漱石がいる。

 

◆現在

民家の周囲を円形に囲むように道路が走り、土塁の一部が残されている。 


土塁の上に看板が取り付けられている。