2017年5月2日撮影
◆別名:
◆所在:
岡崎市箱柳町日陰
◆交通:
◆歴史:
保元元年(1156年)保元の乱が終わった後、平清盛の叔父にあたる平忠正の七男・七郎正持が中根村に逃れ、中根姓を名乗り一帯を治め、この地から全国に中根姓を広めていった。
正長元年(1428年)箱柳城を築いた中根盛清から八代目城主忠良にかけて、勢力を拡大した中根氏は、箱柳のほか道根六郷(箱柳と坂田・田口・小呂・岩谷・中畑の五郷)を支配したが、三河松平氏や駿河の今川氏などの侵攻を受け、自立を維持できなくなり、松平氏に臣従する事になる。
その後、徳川家康の家臣として中根忠貞、正照の兄弟が出てくるが、忠良との間の系譜は伝えられておらず、正照は尾張南部の中根南城一帯を支配している事から、直接の血縁ではなく、この地から外へ出て行った中根氏の支流の可能性も高い。
なお、忠貞は永禄12年(1569年)今川氏真との間に起こった掛川の戦いで討死、正照は元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで武田軍に討ち取られている。
正照には跡継ぎがいなかったため、織田信長の弟である信照を中根家の養子として受け入れており、正照は後に本多忠勝の妹を娶り、代々本多家の家老として職責を全うしたと伝わる。
◆現在:
道路脇に城址碑が立っている。
城跡自体は、城址碑の場所から川を渡った対岸の竹藪の中にある。
曲輪が3段に配置され、石垣が組まれており、虎口らしき物も存在するが、全体が竹藪に覆われ、整備されているわけではないので、 どこまでが城の遺構なのか判然としない部分もある。
竹藪の中に残る石垣の上に城跡の看板が立てられている。
聖得寺の入り口には、中根氏代々の墓の由来が記された看板が立てられている。