六名(むつな)城

城があったと伝わる一帯は、真宮遺跡として、国より史跡の指定を受けている。

 

2017年7月17日撮影


◆別名:

 

◆所在:

六町、岡崎市

 

◆交通:

 

◆歴史:

築城年などは不明だが、城主には鳥居忠広、成瀬正義、蜂谷貞次、安藤直次らの名前を見ることができる。

 

 

成瀬氏は、文安年間(1444年~1449年)頃、200m程北にある影山城を居城として、松平氏二代目の松平親氏に仕え、その後、松平信光に従って岩津城へと移り住んでおり、この頃に、対岸の渡城を本拠としていた鳥居氏が六名を支配したと思われる。 

 

岩津城へと移った成瀬氏であったが、四代目の直庸の代には、木戸城を本拠地とし、五代目の国平は松平親忠によって影山城へ戻ってきており、この時に、影山城に改修・拡張を施すなどして、六名城を築いたと考えられる。

 

八代目の成瀬正義は木戸城主であったが、永禄5年(1562年)に同僚を斬捨て出奔した際には六名城主となっており、三河一向一揆が始まると徳川家康の元に帰参し、鎮圧に当たっている。

 

次に城主となった蜂谷貞次は、三河一向一揆では一揆側に付いて家康に敵対したが、一揆が鎮圧されると、大久保忠俊(義父)らの歎願によって家康に許され、その後、六名城主となったと思われる。

 

貞次は永禄7年(1564年)6月に行われた吉田城攻めに従軍するが、鉄砲に当たり負傷。従者に守られ退却し、六名城で死去している。2月に一揆が鎮圧され、家康に帰順してから、わずか4か月後の事であった。

 

その後、安藤直次が城主となっているが、家康の関東移封の際に従い、関東に領地を得ているため、この時に廃城になったと思われる。

 

◆現在:

城館があったとされる一帯は、縄文時代の住居跡に始まり、古墳時代、平安・鎌倉の各時代の住居跡が発掘されており、真宮遺跡として国より史跡指定を受けている。

 

矢作川沿いにあるが、高台になっているため、河川の氾濫などの影響はなく、古来より住居に適した地であったと思われる。